2011年03月25日

震災から2週間

緊張と悲しみの中で2週間が過ぎ
こんな中でも、時間は過ぎていくこと、ゆっくりだけど、ちゃんと春が近づいていることを、
不思議にも思う。

3月11日。14時46分。
秋葉原の取引先ビルで震災にあい、ひと晩を過ごした。
家族4人がバラバラで連絡がとれず、不安だった夜。
タイシとリリカは、連絡がつかない中でも、近所のかたのご厚意でお迎えしてもらっており
しゅんは高田馬場から深夜に徒歩で帰宅。 私もやっとの思いで翌朝、帰宅。
そこでテレビを見て、あまりの惨状に唖然とした。

悪夢はそこで終わらなかった。
地震、津波につづいての原発事故、農産物汚染、水質汚染。

職場もバタバタの対応におわれ
こんなときこそ、家族第一優先でいたかったのに
日中は職場を優先せざるをえなかった。
典型的な日本人思考の自分に、自嘲気味だった2週間でもある。

原発には本当にひやひやさせられた。
荷物をまとめていつ逃げ出そうかと、腰を浮かせ気味だった。

3歳と7歳の子どもを抱えた母親の立場としては、当然の心境だったと思うけど、
shunは落ち着いていて、冷静で、私と温度差があった。
そのことにもイライラしたし、落ち込んだ。

でもしかたなかったかな、とも思う。
自分が感じた不安と恐怖は、子どもをもつ母親の本能のようなものだったんじゃないかな。

糸井重里さんが「ほぼ日」で語っておられたけど
こういうときは、右往左往するものだし、右に逃げるか左に逃げるかは、最後は自己責任。
皆、自分の嗅覚で、とっさの判断で、右にも逃げるし、左にも逃げる。
その「右往」も「左往」も、それぞれに尊く、尊重されるべき判断だ、と。

でもその「嗅覚」「センサー」が正しく働くための、正確な情報だけはほしいけど
政府は、なかなか、「本当にほしい情報」は語らない。
だから、正しそうな情報を集めるのにも、本当にパワーがかかった。 
多くの人が同じ思いをしたのではないかと思う。


結局、逃げずにここにいる。
保育園と小学校、学童の、お弁当対応やら、時間短縮や、そんなことにも追われて、
仕事もイレギュラー対応がつづき、
このめまぐるしさと、この緊張感とを、両方味わいつづけるのは、とてもしんどかった。

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東京は、日本は、こんなにも
あやうく、壊れやすい社会システムの上にあったのか。

砂上の楼閣だ。

電気を光々とつけて、エネルギーを大量消費して、
それが日本が成し遂げてきた成功の証であるかのように、幸せを享受してきた、
でもそれが、原発のこれほどまでのリスクとすぐ隣り合わせにあるものだった、とは
これまで気づかなかった。

地震も津波も、昔から日本にあったものだけど
これほどの脅威を感じたことはなかったし、
自然はあまりに大きく、人の営みも力も、自然の偉大さを前にして、
あまりに小さなものだった。

我々はどこかで、謙虚さを忘れていなかったか。

なにか「あたりまえ」だったものが崩れ、
日本が、自分たちが、
どこかの道でチャネルを間違えて歩んできてしまったのかもしれない、と
感じざるをえない2週間の出来事だった。 (まだ終わってないけど・・・)



なにかが変わるかも。
変わらないといけない。

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亡くなられた方々とご家族に、心からお悔やみ申し上げます。







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posted by takonosuke at 05:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 家族日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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