2012年09月24日

おもちゃも万国共通である



台北で2日間にわたり開催された、「東アジア子ども学交流プログラム」に参加してきました。

この仕事について以来、ずっと尊敬して、迷ったときの心の拠り所とさせていただいてきた、小林登先生、榊原洋一先生のほか、中国、台湾の教育関係者が集まり、とても刺激的で、インスピレーションのわくインプットの機会をいただきました。

シンポジウム2日目で、東京おもちゃ美術館の多田千尋さんのプレゼンテーションがあったとき、また背中になにかが走りました。

良質で、子どもの本能をくすぐり、手ゆびにいい仕事をさせ、親子のコミュニケーションのよい介在物となるおもちゃ。
これらも、先日かいた「音楽教育の価値」と同様、万国共通なはず。

日本で提供しているおもちゃは、お客さんのニーズの深掘と、マーケティングの深化によってさまざまな付加機能(ときには余計ないらない機能)がついてきているがもっと原点に戻って、素朴で子どもの遊びの原点、彼らの本能に触れるようなおもちゃを、もう一度洗い直そう。

そして、現地の子どもたちの生活、遊びの姿をもっと見に行こう。
彼らは日本の子どもたち以上に、もっと自然(泥や水、葉っぱや棒切れ1本)を使った遊びに長けているはず。

彼らのその本能性を損なわない、良質な遊びを抽出して届けたい。
きっとそれは他の国の子どもたちにも共通して受け入れられるはず。

そのもととなるネタはすでにたくさん抱えている。日本のものをそのままはめようとするのではなく、遊びの原点にかえろう。

それらをもって、きっと彼らの国に入っていける。



image-20120923172013.png


おもちゃは人の笑顔を誘う。
東アジア各国の人たちが集まるなかでドッと会場を沸かせた多田千尋さんにあらためて敬服。よい気づきの機会をいただきました。先生、本当にありがとうございました。2日間ご一緒させていただいて大変光栄でした。









新興国の子どもたち、親力と子らの目の輝き


★目の輝き

この1年、いくつかの国の子どもたちを見てきたけれど、それぞれに目のの輝き方がちがう。目の輝きは、なにかを求める基本的な興味関心、知的好奇心の現れ。
日本にも、目が輝いている子どもとそうでない子どもがいるが、アメリカの子どもたちも、比率でいえば日本の状況に似ていた。一方、インドネシアの子どもたち、圧倒的に輝いていた。 中国や台湾の子どもたちにも、インドネシアほどではないが、まだ多くの子の目のなかに強い光がみえる。
ひらたく言ってしまうと、「国が豊かになるにつれ、その目の輝きが失われていく」のだろうか。 物や情報が身の回りにあふれればあふれるほど、子どもの目の輝きが失われていくのか。残念ではあるけれど、そのような傾向を感じざるをえない。これがこの1年の実感値。

★ハングリーであることの重要性。

小林登先生の言葉をお借りすれば、子どもの育ちにとって重要なことは、子どもをいつも「遊ぶ喜びいっぱい」「学ぶ喜びいっぱい」「生きる喜びいっぱい」にしておいてやること。

この「喜びいっぱいの状態」がいわゆる「目がキラキラと輝いている状態」であろう。 そのためには、「与えすぎないこと」が必要だと思う。今の世の中、ありとあらゆるものがそろいすぎている。物も情報も溢れかえっている。

★親力

なので、豊かになればなるほど、親が賢くなることが求められていると思う。
なんらかの成長効果を期待して、教育的要素(おもちゃ、絵本、環境、習い事など)を親の希望や都合だけで与え続けるのは望ましくない。
下手したらそれができてしまう豊かな世の中であるが、親が選んできたものでおなかいっぱいにしてはならない。 子どもの目をみて、輝きの様子をみて、ある程度、情報や物の取捨選択をして環境を整えたうえで、そのなかで子どもを野放しにしてやること。

つまり、子どもの「ハングリーさ」だけは守ってやることだ。

いうならば、与えればいいのは「素材」「火種」だけである。
与えたそれを、子どもが焼こうが燃やそうが、水をかけようが、素手で触ろうが、もしくは興味を示さずにその場を離れようが、子どもの本能と欲求に100%まかせるべきである。 多少のやけどしようが、子どもはかならずそこからなにかを学んでくる。そういう力をもっている。親がそこに、意見、方向づけをしてはならない、ただ子どもが求めてきたときに、必要に応じて、適度な手助けをしてやること、彼らが心配になって振り返ったときに、「それでいいんだよ」と微笑みうなづいてやることだけである。
ルール、カリキュラムを大人のほうで作り込んで与えてすぎてはならない。子どもは自ら選びとったときに、もっとも目を輝かせ、そして未知のことに能動的に関わり、発展させようとするはず。

言葉でいうのは簡単だが、親にとって、実際には難しい。
私自身もそうだが、親は生理学的に、子どもに万全な環境を用意し、アドバイスや意見を与えたくなるものだ。余計な手出し、口出しをしないためには、「広い視野、知性」(子どもが自ら選びとることにこそ意味がある、と知ること、自分の子に今、どんな発達的刺激があるとよいかを子どもを見ながら敏感に察知すること」、「寛容さ、忍耐」(即時的な効果を求めず、芽はあとあとから出てくるもの、と知ること、即時的な目に見えやすい成長効果をあきらめること)、などが必要なのだろう。

★新興国でできること

今、目を輝かせて新しい刺激を求めている彼らに、良質で発達にあっていて、適度な成長のための火種(刺激、素材)を提供しながら、同時にもっと家庭のなかでの親力を開花させていくようなもの。

難しい大仰な形ではなく、新興国に入っていきやすい、なじみやすい形で、システムとしてそのような仕組みをつくって広げられないだろうか。

草の根的な活動は必要だが、ある一定のマスに対して働きかけることができる我々ならではの方法論でこういうことにアプローチできないだろうか。

今できていることもそれほど遠くはないはずだけれど、まだまだ洗練されていないから伝わっていかない。
わかりやすい価値まで昇華させていきたい。

今日はここまで。
今の自分の限界。
頭をひねりながら眠ります。
明日はもう一歩先に、進めるはず。








2012年09月23日

万国共通となりうる価値って



某大手音楽教室の海外展開を担当するかたにお話をうかがう機会をいただいたので、どうせなら、その機会を活かしたいと、以前から気になっていたその教室にリリカの体験レッスンのふりして潜入してみてきました。

ただ普通にピアノを教えるレッスンをするのかと思っていたので驚きました。

私が遭遇した先生がたまたまグレードの高いかただったのだろうか。

全身全霊で、音楽の楽しさ、味わい深さをプレゼンテーションする、エンターテイナーのような役割をされていました。

楽譜の読み方、鍵盤の扱い方などにとどまらない。ある曲をまずは自然に先生が味わい尽くして演奏してみる、その曲の生まれた背景、その作曲家の育ち、ほかに生まれた曲などについて幼児にもわかるように語っていく。

子どもたちの反応をみながら、情景が目に浮かぶように音楽の理解、深い味わい方を促していく。

そしてどの子の自由な反応も、そのままに受け止め、肯定し、意欲の芽を見逃さずに伸ばしていく。

ほぼ完璧なレッスンであるように見受けられたし、私がこれまで知らなかった世界であり、純粋に感動して、新しい刺激を受けました。

(それでも私はここは選ばず、リリカに個人レッスンのピアノ教室に通わせますが、、、理由は後日。)

この某音楽教室は海外展開でも一定の実績を出してきている。いろいろ調べてみて納得した。

「人生のなかに音楽があれば、より彩りある豊かな人生を送れるだろう。音楽を楽しむ人が増えれば、世の中はきっともっとよくなるだろう。」

彼らの提唱するこの基本的価値に異議を唱える人はいないだろう。誰もがうなづく、とてもわかりやすいシンプルな価値。

どの国にも移植しやすく、伝わりやすい価値。
外に持っていくなら、このくらいまでシンプルで、わかりやすくなくてはいけない。

自分たちが足らないものに少し気づけた。
新しい価値に出会えたこのチャンス到来に感謝。





2012年09月19日

書き言葉、話し言葉



「書き言葉」というメディア、「話し言葉」というメディア、どちらか一つを排除せよ、と言われたら、間違いなく、「話し言葉」を捨て、「書き言葉」を残すだろう。

それだけ、数多くの、あまりに多過ぎる失敗を、「話し言葉」の中でしてきた。

話すと間違う、余計なことまで口をついてしまう。この事実に否が応でも気づかされ、風呂敷をたたむように、謙虚に、言葉少なに生きたいと何度願ったか。

ところが自分以外の他者と過ごすとき、その場を少しでも盛り上げねば、と自動的に反応してしまう、哀しい性分により、その願いは何度となく打ち砕かれた。

でも、勢いにまかせて喋りたいことを話し、後悔したり、後味の悪い思いをしたり、誰かを小さく傷つけたりするたびに、ちっとも幸せじゃなかった。


だから、「まったく緊張感を要求せず、盛り上がることを求めておらず、無理に話さずともよい」shunと出会い、結ばれたときには、心底ホッとした。これで余計な言葉を多産せずにすむ。


ようやくそんなモードにも慣れてきたけど、まだまだ道半ば。失敗だらけの毎日。

そして、ブログやFacebook、いまは「対複数の人に向けた書き言葉としてのメディア」をある程度、使うことにより、なにか自己発信?、自己弁護?他者との共感?欲求も満たされているのかもしれない。

いずれにせよ、話し言葉には本当に自信がない。修業が足りないとも思うが、一生、このコンプレックスからは抜け出せずに、失敗を続けることになるのだろう。





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2012年09月18日

ストーリーで語る

もっと目の前の課題、乗り越えるべきこの先の道を、自分の言葉で、ストーリーとして語りたい。


古い、小さな成功体験の中に、こんな記憶が残っている。

いい仕事ができたとき、必ず自分の言葉で、その仕事が迎えている課題の分析や、解決していくべき道筋について、語ることができていた。
必ずしもいつもそれが成功に結びついたわけではないが、自分の中には確信のようなものがあり、自分の内から、ストーリーのイメージが沸き起こり、よくそれを誰か相手にとうとうと語っていた。結果的に、うまくいくことも多く、同時に誰かと共鳴したり、影響しあえたりする機会にも恵まれていたような気がする。


いま関わる海外プロジェクトは、課題が大きすぎ、また関わる他のメンバーの有能さに圧倒されて、自分の言葉で語ることから逃げている。

そのことに気づいたとき、とても悔しかった。

そしてこの一年をかけて気づき始めた、この難しい課題を前にして、誰も美しく整った正解を持ち合わせているわけではない。

何も大きな絵を描かずともよい、自分の取り組みにあたる際に、それに対して自分の中から湧き出る言葉で語りたい。

これ、仕事の中の基本的欲求じゃないか?

いまはそのために自分の内なる畑を耕している、インプット、インプット、インプット。

明らかに力不足すぎる。
ストーリーのイメージが沸き起こるまで、しばらく我慢して身のうちを肥やす。


あきらめない、あきらめたくない。
いま、できることをまずは一つずつ。

.......….....................................

先日、人に、「急に本を読みまくって一体どうしちゃったの?」と問われ、答えに窮しましたが、以上、恥ずかしながら、Answerです、笑。





posted by takonosuke at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事モード!! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

どう生きるか、の軸


余裕のあるとき、ほんのたまに、自分に課している簡単なチェック項目。

明日、ここで自分の人生が終わることを告げられたとしても、
「ああ、懸命に生きた、これでよかった」と思えるかどうか。

いいことも悪いことも、
下手したら淡々と続く長い人生のどの瞬間を切り取っても、そう思えるかどうか。



言うのは簡単であって、実際にそうあるのは難しいかもしれない。
でもできるだけ、そうありたいと思いながら歩いている。

日々を精一杯の自分で生き抜き、
どこを切り取っても、
「これでよかった、これ以上にもこれ以下にもできなかった、通るべくしてこの道を歩いてきた」と思える自分でありたい。

オイシックス社長である高橋宏平氏の、創業にまつわる本を読んだ。
 (『Life is vegetable』)
その中に、「人生の中で“なにかに夢中になっている時間”を増やすことが成功の道につながる」というコメントがあった。

きっとそうなのだろうな、とは思えるけれど
超ポジティブ志向でもない私は、自省する時間、がっかりする時間、ドン底まで落ちる時間、
嘆き悲しむ時間、ぼんやりする時間、そんな時間だって、ポジティブなことを考えている時間と同じくらい、愛しく思ってしまう。 そんなどうしようもない時間こそが、自分らしい、ということだってある。

だから、生活の中のすべてがポジティブなベクトルに向かって動いているわけでは決してないけど、「なにかに心が大きく振れること」はずっと大切にしてきたし、それが自分の軸であるとあらためて思った。

なにかの外的要因から、自分の心が小さくとも揺れたとき。
その波紋を見逃さずに、自分の中に波動が起きるまで、自分を揺さぶってみること。

そうやって新しいエネルギーが生まれてくるようなことが、よくあるような気がする。
これかもしれない、と思ったら、目をかけてみる、手間をかけてみる、片足突っ込んでみる、
そしてなにか確信のようなものが芽生えてきたら、よいしょっとそっちのコースに乗ってみる。

なんとなく、そんなふうにして選んできた道だった。
結果、ある程度、自分に正直に生きてこれているような気がするような気がする。


『明日、ここで自分の人生が終わることを告げられたとしても
「ああ、懸命に生きた、これでよかった」と思えるかどうか。』


38歳7か月、今の時点で、「Yes」といえることを、今日も確認する。
そして同時に
たぶん、この先も、このスタンスで行けばいいと、自分の軸をあらためて固めていく。



たぶん、この先も必ずしもいいことばかりではなく、失敗することも多いはずだけど
死ぬ一歩手前の一日に、
「これでよかった、自分らしく精一杯生きた」といえる人生でありたい。






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posted by takonosuke at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたし時間、ひとり時間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月07日

夫の海外赴任から3か月が過ぎ


Shunの北京赴任も3か月が過ぎた。
少しずつ彼のいない生活に慣れてきてはいた。

一番困ったのは、固くしまってしまった瓶のフタを開けてくれる人がいなかったとき。
(Shun、こんなことでごめん、笑)
自分の握力ではどうしても空かなくて、途方にくれて、そのままゴミ箱にポイ、となった。

いつも当たり前のように頼ってきた人がいなくなった空虚感は大きい。

夜、2階で子供たちを寝かしつけたあと、1階に下りることが減った。 
ひとりの時間、空間を感じたくない。

ベッドサイドに小さなライトスタンドを買ってきた。
子供たちを寝かしつけたあと、そのまま、子供たちの寝顔をみながら、読書にふける日々が続く。

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先日、朝から4歳のリリカはイライラしていた。
いつも自分でじょうずに髪を結ぶのだが、うまくいかないと言って、イライラして泣いている。

私が、平日の朝を忙しく過ごしながら片手間になぐさめていると
「ママは冷たい」といって、「パパ〜」といって泣き出した・・・。

こういうシーンは本当に参る。 彼らがパパを求めるとき、どうしてもその穴を埋められないことがある。

出社時間が気になる私が、洗濯物を干す手をとめずにいたら、リリカは「パパー」と泣きながら、パパのクローゼットに近づき、よろよろとパパの洋服をまさぐり、においをかぎ、顔をうずめて泣いている。

心底、まいった。

ごめん、リリカ。

思わず抱き寄せて、職場に遅刻することも覚悟を決めて、ずっとずっと抱っこしていた。
そして私も一緒に泣いていた。

ごめん、リリカ。
大人の都合で、子供たちとパパを引き離している。

世間一般の常識でいえば、
「ありえない、家族は一緒にいるべき、そんな小さい子がいて、そんなよいパパならなおさら」となる。

でも私たちには、私たちなりの事情と意志があって、この道をあえて選んでいる。
Shunと私は、意志をもって、Shunの北京赴任を決めていた。

でも、これは、リリカのタイシの意志ではない。 彼らに選択の余地はなかった。
たぶん、かわいそうなことをしているのだろう。

でもね、Shun(読んでいる?)、これをこのままで、「かわいそう」で終わらせてはいけない。

パパが北京で暮らしている、
ママはしょっちゅう海外出張に出かけていく、

でも我々だからこそ、意志をもって選んだ道。
家族4人があとから振り返って、
「パパが北京でお仕事をしてみて、ママが海外に目を向ける仕事をして、そしてこの数年、こういう生き方をしてきてよかった」と
家族全員が思えるようなところまで、この状況を昇華させなくちゃいけない。

Shunはきっと大変なのに、とてもがんばって慣れない環境での仕事に日々奮闘している。
それをここから応援して、あなたからのいいエネルギーを家族の中に還元してもらうこと、
そのエネルギーを受けて、私がここでがんばり、タイシやリリカが海外にも目を向けながら、前向きに視野広く育つこと、
負の回路に陥ることなく、そういうよい回路に転化させていかなくちゃいけない。

そのための努力を、しようと思う。

いままではママ業しか考えてこなかったけれど、ときどきはパパ的役割もしなくちゃけないと思っている。

いままでは、子育てで手に負えない部分は、遠慮なく放り出して、Shunが自然にキャッチしてくれていたけれど、
自分ひとりでも子供たちに対してバランスがとれるように、とても気を回すようになった。

当然ながら、真剣勝負で子供たちと向き合う時間も増えている。
これはひとつ、よかったこと。

この状況を、必ず良い地点まで昇華させたい。

安全、安定から外れることもあってもいい。
やりたいことを追い続けたい。
夫不在の中のワーキングマザー、条件は悪いと思われがちだが
きっと、よかったと思えるところまで持っていきたい。

そして、きっと、そうできるような気がしている。
そしてそれができたとき、きっと自分らしい、自分たちらしい人生だと思えるような気がする。

がんばるよ。
がんばろうね。




パパのTシャツを着こんではしゃぐリリカ
IMG_0822.JPG





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posted by takonosuke at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 家族のなかで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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