2012年09月24日

新興国の子どもたち、親力と子らの目の輝き


★目の輝き

この1年、いくつかの国の子どもたちを見てきたけれど、それぞれに目のの輝き方がちがう。目の輝きは、なにかを求める基本的な興味関心、知的好奇心の現れ。
日本にも、目が輝いている子どもとそうでない子どもがいるが、アメリカの子どもたちも、比率でいえば日本の状況に似ていた。一方、インドネシアの子どもたち、圧倒的に輝いていた。 中国や台湾の子どもたちにも、インドネシアほどではないが、まだ多くの子の目のなかに強い光がみえる。
ひらたく言ってしまうと、「国が豊かになるにつれ、その目の輝きが失われていく」のだろうか。 物や情報が身の回りにあふれればあふれるほど、子どもの目の輝きが失われていくのか。残念ではあるけれど、そのような傾向を感じざるをえない。これがこの1年の実感値。

★ハングリーであることの重要性。

小林登先生の言葉をお借りすれば、子どもの育ちにとって重要なことは、子どもをいつも「遊ぶ喜びいっぱい」「学ぶ喜びいっぱい」「生きる喜びいっぱい」にしておいてやること。

この「喜びいっぱいの状態」がいわゆる「目がキラキラと輝いている状態」であろう。 そのためには、「与えすぎないこと」が必要だと思う。今の世の中、ありとあらゆるものがそろいすぎている。物も情報も溢れかえっている。

★親力

なので、豊かになればなるほど、親が賢くなることが求められていると思う。
なんらかの成長効果を期待して、教育的要素(おもちゃ、絵本、環境、習い事など)を親の希望や都合だけで与え続けるのは望ましくない。
下手したらそれができてしまう豊かな世の中であるが、親が選んできたものでおなかいっぱいにしてはならない。 子どもの目をみて、輝きの様子をみて、ある程度、情報や物の取捨選択をして環境を整えたうえで、そのなかで子どもを野放しにしてやること。

つまり、子どもの「ハングリーさ」だけは守ってやることだ。

いうならば、与えればいいのは「素材」「火種」だけである。
与えたそれを、子どもが焼こうが燃やそうが、水をかけようが、素手で触ろうが、もしくは興味を示さずにその場を離れようが、子どもの本能と欲求に100%まかせるべきである。 多少のやけどしようが、子どもはかならずそこからなにかを学んでくる。そういう力をもっている。親がそこに、意見、方向づけをしてはならない、ただ子どもが求めてきたときに、必要に応じて、適度な手助けをしてやること、彼らが心配になって振り返ったときに、「それでいいんだよ」と微笑みうなづいてやることだけである。
ルール、カリキュラムを大人のほうで作り込んで与えてすぎてはならない。子どもは自ら選びとったときに、もっとも目を輝かせ、そして未知のことに能動的に関わり、発展させようとするはず。

言葉でいうのは簡単だが、親にとって、実際には難しい。
私自身もそうだが、親は生理学的に、子どもに万全な環境を用意し、アドバイスや意見を与えたくなるものだ。余計な手出し、口出しをしないためには、「広い視野、知性」(子どもが自ら選びとることにこそ意味がある、と知ること、自分の子に今、どんな発達的刺激があるとよいかを子どもを見ながら敏感に察知すること」、「寛容さ、忍耐」(即時的な効果を求めず、芽はあとあとから出てくるもの、と知ること、即時的な目に見えやすい成長効果をあきらめること)、などが必要なのだろう。

★新興国でできること

今、目を輝かせて新しい刺激を求めている彼らに、良質で発達にあっていて、適度な成長のための火種(刺激、素材)を提供しながら、同時にもっと家庭のなかでの親力を開花させていくようなもの。

難しい大仰な形ではなく、新興国に入っていきやすい、なじみやすい形で、システムとしてそのような仕組みをつくって広げられないだろうか。

草の根的な活動は必要だが、ある一定のマスに対して働きかけることができる我々ならではの方法論でこういうことにアプローチできないだろうか。

今できていることもそれほど遠くはないはずだけれど、まだまだ洗練されていないから伝わっていかない。
わかりやすい価値まで昇華させていきたい。

今日はここまで。
今の自分の限界。
頭をひねりながら眠ります。
明日はもう一歩先に、進めるはず。








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