2011年11月05日

ジャカルタで思うことB打てば響く



ジャカルタの子供たち。
底抜けに明るかった。

そして、とても日本人に近い感覚の「恥じらい」の意識がありながら、
そっと近寄ってきて、すぐに愛着を示す。 

彼らの年上の人へのあいさつ(リスペクト)の表現方法として、
握手のように相手の手を受けて、自分の額にペタンとその手を押し当てる、
というしぐさがある。

1,2歳のころから、礼節表現のひとつとして、親はそれを子に教えるのだという。


ジャカルタでも郊外のほうの学校を訪ねたとき、
日本人がめずらしい彼らは、とにかく我々と握手をしたく、次々に駆け寄ってきては、
そのあまりにかわいらしい仕草を繰り返してくれるのだった。

とても心に残る時間だった。


インドネシア国民の上位層0.1%が通うような、超上流の私立校もみたけれど、
公立校に通う一般的な(もしくは、かなり貧しい)子供たちの目のほうが、
あきらかにイキイキとしているのが印象的だった。

打てば響く、みずみずしい生命感、躍動感のようなものが、その瞳に輝いていた。

基本的に、ハングリーなのだと思う。

何かを求めている。 おもしろいものを見つけたい。 近寄りたい。 
そのものに自分から働きかけてみたい。
そんな好奇心にあふれていた。

これが、子供の瞳だ。

打てば響く、
その、澄みきった、豊かな感受性、これを持てている子のほうが幸せだ、と直感的に思う。
彼らは生きる喜びにあふれてる。
この輝きこそ、このあとの生きる力につながっていくはず。

おそらく。
大人が準備しすぎるほど、作り上げた世界を用意すればするほど、
彼らの創造力は色を失っていく。

子供に与えるモノや環境は、
できるかぎり未完全であるほうがよい。

まだ未完成のもの、手つかずのもの、まだ何も生まれていないけれどワクワクさせるもの。

そうしたものに出会うとき、子供の輝きが引き出されていく。


以前から思っていたこを、あらためて確信した。

子供には、用意されすぎない環境のほうが必要。
誰かに何かを与えられるより、
自ら手を伸ばしてなにかを求めるときに、彼らの輝きは増していく。



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The children in Jakarta was really pure, friendly and very polite.






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2010年05月30日

男の子、女の子


リリカ育てが、とても楽しい。

2歳半ばを過ぎ、“女の子モード”に、次々スイッチが入っていく。

かわいい花柄のお洋服やちょっと素敵なスカートを着たがって。
(タイシはなんでもよかった・・・)

ママのお仕事をなんでもお手伝いしたがって。 
サラダを用意したり、お膳を整えたりと、2歳にして、すでに戦力^^
(タイシはそれより遊びたいことが山ほどあった・・・)


こちらが注ぐ、愛情の受け取り方も、少し違うように感じる。

タイシは、私やshunが愛情を注げば注ぐほど、その栄養を違うエネルギーにかえて
外に外にと伸びていった。6歳になった今もそう。

こちらが注げば注ぐほど、それを糧にして、上に外に、興味を広げて
すごい集中力とエネルギーをその興味の対象に向けて没頭する。

おなかがすくか、よっぽど疲れたりしたら帰ってきて、少し休んで充電できたら
また外へ、外へと飛び出していく。 私は、基地であればいい。

一方、リリカは。
こちらがかわいがればかわいがるほど、リリカの内面が奥深く、豊かになっていくよう。
こちらが、「本当にかわいい」と慈しむと、それと同等の、もしくはそれ以上の愛情表現で
「わたしも大好き!」と返してくる。それほそれは、本当にかわいらしく、いとおしい。
女の子はこういうのが得意なのかもしれない。
誰かを愛して、より強く愛される能力を、こんなに小さなときから備えている。


ママとの二人デートも楽しむようになった。

タイシはパパとの体験に夢中だ。 釣り、野球、将棋。
リリカはママと、公園や動物園にいくのがすき。
そのうち、ショッピングやカフェでお茶、なんてのもアリかしら!?

女である私の、未知の領域を次々切り拓いてくれる男の子育て、
女同士ならではの興味や気持ちの共有を楽しめる女の子育て、

それぞれが、私の人生をますますおもしろくしてくれる予感。
楽しみに、大切に、歩きたい。




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2009年08月15日

男の子の育て方

5歳のタイシの勢いが止まらない。

食べる、寝る、以外は・・・ ものすごい圧倒的な集中力で、遊び込む!!!

いったん外に出ると帰ってこない。
虫取り、水かけ、野球、サッカー、どろんこ、鬼ごっこ・・・・・・。

3時のおやつでさえ、「簡単に食べられるものにしてね、はやく外に戻りたいから。」 
・・・とのこと。
もはや彼にとっては、「家」ではなく「外」が「戻るべき場所」らしい。

エネルギーを補給したら、一目散に飛び出していく。
この一分一秒が惜しいらしい。

危険を回避するために、おっかけまわすようなことは、とうの昔にやめた。
なにか習い事をさせるようなことを考えたこともあったけど、
彼の神聖な遊びの時間を略奪するような気がして、とてもできない。

土日はついつい、親のほうは「おでかけ予定」を組みたくなるけれど
タイシにとっては、「自由な外遊び」こそが、なによりも楽しくて大切みたい。

だから、私にできることといえば・・・。

彼のエネルギーが向かう先の邪魔になるようなことを、極力しないこと。

日々のあたりまえの「遊びの空間」「遊びの時間」を、
あたりまえに保証してやること。

たっぷりの栄養で補給だけして、あとは彼の世界観に手と口を出さない。

彼が求めてきたときだけ、必要なフォローはするけど。
「こうしようね」「ああしてみれば?」なんて私が言う必要はまったくなくなってきた。

彼を信じて、彼にまかせて、
彼が伸びたいほうに、自由に、大きく、飛び込ませていく。




たぶんそのほうが、彼は伸びる。  きっと、ぐんぐん伸びる。





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2007年07月08日

五感で生きて行け

タイシの最近のブームは、アスレチック。
私も週末になると、手軽にアスレチックが楽しめる公園を探すようになった。

週末は、外で遊ぶか、ちょっとだけ遠出して、自然の中に出かけることが多い。

家の中での遊びも楽しんでいるけど
外に出ると、タイシの目の色が変わる。

以前、乳幼児向けの絵本や玩具や映像を作っていたときに
いつも、ひとつのキーワードとなるのが『五感』だった。

子どもの五感に触れるようなものを作ろうと、いつも頭をひねっていた。
水で遊ぶもの。土や草木に触れるもの。
美しい言葉やリズム。

でも、私の目の前にいる3歳児が求めている“五感体験”は、
私が以前に作っていたような上品なものではなかった。

もっと激しくて、もっと本質的で、もっと直接的で、もっと全身で体感するもの。

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先日、家族で石和温泉にいったとき、ちょっとした山にちょっとした川があって
タイシに、沢のぼりのようなことをさせてやった。
わりと激しく水が流れてくる中を、足元を確かめながら、ときどきは段差をこえながら
上流に向かっていく。 全身びしょ濡れで、手足にも、顔にも、水しぶきが飛ぶ。

その時のタイシの顔。

全身の感覚を、研ぎ澄ませている。
全身全霊で、まわりの空気や、飛んでくる水や、足元の石の感触を察知して
受け止めて、その中を進んでいく。

なんというか、タイシの本能が研ぎ澄まされて、磨かれていくのが、見ていてわかる。
人間も動物。
その本能、五感を最大限に引き出すような体験。

それをタイシ自身が、求めていて、そして、全身で喜んでいる。
サルの子みたいに、ぶらさがって喜び、                                                                でも真剣にとりかからないと、あなどれないアスレチックも同じ。

子どもを自然の中で育てるというのは、『生きる力』をつけるために、大切なんだなあ。
むずかしい理論をこねくりまわして、                                                            高いお金を払って五感を使って遊べるおもちゃを与えるよりも、
こうやって自然の中に放り出してやることで、子どもは自ら、つかんでいくんだなあ。

今は、東京に住む限り「自然」が“贅沢”になり、                                                       なかなか、ホンモノの自然に触れさせる機会自体が少ないけれど
こんなことを思いながら、やっぱり、週末になると
せっせと自然の香りを求めて放浪する我が家です。

生活の拠点に郊外を選んだおかげで(東京の田舎です。はっきり言って。笑。)                                        探すと近場にもいろいろあるのよね。


タイシ。  五感を研ぎ澄ませて生きてゆけ!






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2007年07月04日

投げ出さない育児

“母親”を3年間やってみて、
「育児とはなにか?」と、ひとつ、定義づけてみるなら、
まさに、“育児とは・・・投げ出さないこと。” と身をもって言える。

子どもを持つ前は、結婚生活を投げ出してみることもあった。
shunと些細なケンカをして
面倒くさくなって家を飛び出して、家からちょっとだけ離れたカフェで
ふてくされてコーヒーを飲んでみたことくらい、1〜2度はある。笑。

ところが、子どもに対しては、そうはいかない。
徹底して「受け入れる」「待つ」ことを求められる。
私がもし彼を突き放したとしたら、それは子どもにとって、途方もない恐怖で
その恐怖は、大人の想像以上のものだろう。

わりと、穏やかなタイプであるにせよ、男の子は男の子。
手をつけられない泣きっぷりや強情っぷりを示すタイシを前に
途方にくれたことも、1度や2度ではない。

でも、待った。

いつも待ち、じっと待って、ひたすら待った。

誰かが「そうせよ」「耐えろ」「投げ出すな」と言ったわけではないけれど
本能的にそういうことになったし、できた。
これが「自分の子を育てる」ということだな、と思う。

忘れがちだけど、ここには大切なことが一つあって、
夫も一緒に「投げ出さない」ことが大事だと思う。

ママがじっと耐えて待っている横で
パパが「あーあ、もうやってられんなあ!」とぶち切れたら
ママだって、ぶち切れかねないこともあるけど

パパが、「とほほ・・・しかたねえなあ・・・」と、一緒に途方に暮れてくれたら
一緒に待ちつづけられるものなのだ。
そういうものなのだ。


ひたすら、待つことが多かったような3年間。
待てば、子は必ず応えてくれる。
子育て。

子育ては、人を強くする。

・・・そして。
夫も子どもも機嫌のよい時には
ちょっとだけ、フリータイムをいただきまして、
自由自在な時間をもて遊んでみたりもします、これでバランスOK^^。

2007年06月24日

3歳あれこれ

3歳になったら、急に「いっぱしの人間」になってきた。 (現在3歳7ヶ月)
そして、親のほうは、急に余裕がでてきた。

1歳の頃のように、                                                                          急に 「立った! 歩いた! しゃべった!」みたいな劇的瞬間はないものの
明らかに、「人間の中身」がしっかりしてくる時期。

私が思う3歳の特徴(あくまで、我が子を見て、の所感に過ぎないけれど)を                                    記しておこうかな。

キーワードは3つ。
●信頼   ●自分   ●想像力

【その1】 信頼

子どもが生まれる前、我が家に流れる重要なワードが「感謝」と「尊敬」だと思ってきたが
タイシが生まれて、かつ、3歳に近づいた頃から、「信頼」がキーワードになってきたと思う。

信頼。
そう、shunも私も、ひとりの人間として、とてもタイシを信頼している。
3歳の子に、そういう感覚を持つということは、子を持つ前は想像できなかった。

でも今、shunも私も、とてもタイシを信頼してる。

もちろんタイシは、3歳なりのワガママも通そうとするし、わけわかんないときもある。
でも、その奥にあるタイシの「人となり」を信じて、待てば、
必ず、強く、まっすぐ応えてくるのだ。

我々の信頼に値する、強い「自我」みたいなものがタイシの中で芽生えてきた。
それが次のキーワードの「自分」。

【その2】 自分

タイシの中で、確固たる自分、というものが出来始めているように思う。
場面場面で、「自分はこうしたい、ああしたい」というだけでなく、
一本、筋が通っているものが見えるようになってきた。

人に甘えるとき。 やさしさを見せるとき。 我慢するとき。 誰かに何かを譲るとき。
悔しさを訴えるとき。 怒るとき。 誰かと共感して笑いあうとき。

「自分はこういう人間だから、こういうときは、こうなのである」というのが、                                       3歳なりに、ハッキリあるのだ。
グラグラしない。 はっきり、しっかりした自我。

これはおそらく、これからのタイシの人生の中で、                                                   一本筋の通った、柱みたいなものになっていくのだろう。

「タイシらしさ」。   
それが見えてきたことをとてもうれしく、かつ、うまく言えないが、                                            なにか、親として誇りのように思う。

【その3】 想像力

いろいろな生活&社会での経験を重ね、絵本の世界でも遊べるようになり、                                                    人間関係の中でももまれるようになった3歳。

こちらが思う以上に、彼は「想像力」を駆使して生きている。

誰かとケンカしても、自分の気持ちがおさまったあとには、
相手の気持ちを想像しながら歩みよることができている。                                            (あ、いつもじゃないけど・・・苦笑)

ときどき、怖いこともきいてくる。
「ママとパパが死んじゃったら、誰のおうちに行こう?」
こんなこと(彼にとっての最大のリスク?)まで、思いを巡らせながら生きている。

不思議なところでは
「アメリカは今、夜か? 朝か?」という時差が気になって、よく質問してきたりする。
(なんで気になるの?)

人の気持ちを読み、空間を読み、時間の流れを読み、状況を読み、空気を読み、
そのひとつひとつに思いを馳せ、想像し、見通しをたてる・・・。

見通しを立てることで、様々な状況の中にある自分が、今どうすべきか、、、、                                               の立ち位置を見定めようとしている感じ。

そんなことができるようになってくるのが3歳なのだ。

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信頼、自分、想像力。

そんなものを得始めたタイシと、                                                               これまで以上に深いつきあいができるようになってきた感覚が楽しい。
そして、生活面でもだいぶ自立が進み、
すっかり「頼れるお兄ちゃん」になりつつもあるのだ。
(もちろん、まだまだ、「甘える赤ちゃん」でもあるけど・・・^^)

あっぱれ3歳。
あんまりはやく、4歳にならないでね^^。

2007年05月13日

教育再生会議

教育再生会議で検討されてきた、子育て(親学)に関する提言が、一時、見送られた。
具体的な提言内容をみると(下記)、一瞬、
「あほくさ・・・。なんで政府にこんなことまで言われなきゃいけないの?」と
思う人がやっぱり多いみたいで、世間では非難轟々・・・。
 
●若い時から子育てを自分のこととして考える
●早寝・早起き・朝ごはんを習慣化する
●保護者は子守歌を歌い、赤ちゃんの瞳を見ながら、おっぱいをあげる
●母乳が出なくても抱きしめる
●授乳、食事時はテレビをつけない
●乳幼児期には本の読み聞かせを行う
●小学生時代は今日の出来事を一緒に話す
●PTAに父親も参加する
●あいさつの励行
●「ありがとう」「もったいない」などの言葉を大切にする
 
私個人としては、
そもそも安部内閣の「教育改革への本腰入れ」が見えた、この会議の設置意義自体は
前向きだし、ぜひ期待したいものだと思っていたのと、
職場で前の席に座っている男の子のお父さんが、再生会議の委員ということもあって^^;
なんとなく、いつのまにか、再生会議を応援するような気持ちになっていたが・・・。
 
まあ、この提言だけでは、たしかに、「上から説教たれる」感はぬぐえないかなあ。
この前に出た「小学校の『道徳』の教科化」の提言もいまいちだったから、                                                                          その感はなおさら・・・。
 
でもきっと、この提言にまとめられている、「あまりに当たり前のこと」が
当たり前でなくなってきている、哀しい実態もあるのだよな。
 
そのことは、教育サービスを展開する民間企業だって気づいているんだけど
それを踏まえた、価値あるサービスを展開するから、そのサービスが売れるんだよね。
 
政府だって「提言だけ」がお仕事じゃ困ったもので、具体策とか、もっと包括的に
全体としてどうしていくんだ、とか、そういうところが欠けているから                                            非難を浴びちゃうんじゃなかろうか。
 
たとえば、民間には手が届かないけど、ぜひ政府にやってほしいことの例。(完全なる私見)
 
●「おっぱい推奨」の具体策として
 
もちろん、全員が母乳がスムーズに出るわけではないけれど、
基本的には人間は哺乳類なので、適切な指導を受ければ、9割の人は出る。
残りの5%は出すぎで困り、あと5%の人は出なくて困る。 
これは体質だから、しかたないことだし、そういう人には、迷いや憂いなく、
安心して、ミルクを使える環境は、もちろん必要。 絶対に必要。                                           ミルクの存在意義は否定しない。
 
でも、「母乳が出る人」に、安易にミルクを勧めるようなことは、あるべきではないと、                                    個人的に思う。
たとえば、粉ミルク会社の販売活動。
育児雑誌には、美しい赤ちゃんと美しいママの写真とともに、                                                   きれいで理想的なミルクのイメージを消費者に植え付ける。
産院では、無料サンプルが配布されたり、お試し価格で格安に粉ミルクが手に入ったりする。(母乳推奨としている産院でも、そういうことが普通に行われている・・・)
 
それはおかしい。
WHOでも、母乳代替品の販売活動を制限する国際基準が設けられている。
なのに、日本では、その基準に準拠した法整備が進んでいない。
 
だから、「出そうと思えば出せるかもしれないけど、“ミルクも悪くなさそうだし、手軽だし”」と
ミルクに流れるママも、実際に多いのだ。
(気を悪くされる方がいたらごめんなさい。あくまで子育て方法は、その人自身の価値観による選択でよいと思っています。ここではあくまで、国とか大きな民間企業とかが、                                                         全体として何をなすべきか、という論点での話だと受け流してください・・・)
 
こういったことは、NPOの活動も盛んだけれど、                                                      法整備なので最終的には、政府にしか介入できない。
 
●早寝・早起き・朝ごはんを習慣化する
 
一方、相対的にいえば、こちらは「食育基本法」が2年くらい前に制定されて
政府としても、いろんな働きかけをしている最中だから、ある程度の具体策が伴っているといえる。
(ポスターやパンフレットが設置されたり、母子手帳に盛り込まれたり、その影響もあってか
メディアでも多く取り上げられるようになったり・・・・。民間の動きも盛ん。)
 
●瞳をのぞく、子守歌を歌う
 
これが一番、個人的には、「オイオイ・・・」と笑ってしまったのだけれど
これこそ、親の理想像を語ってはいるけれど、なんの具体策も伴っていない。
母親が、それだけの心のゆとりや、自信をもって育児に臨んだり
母親を「孤独」「密室」から解放して、「安心」「仲間」「共生」みたいな意識の中で
のびやかに子育てできるようにしていく環境整備の話が伴って当然だろう。
 
孤独で不安なお母さんは、歌なんて歌う心境にはなれんのだ。
 
その中には、「家庭支援センター」みたいな話もあれば、                                             「男性の育児休業」みたいな話もあり、
やっぱり、政府でないと、手を入れられない部分は大きい。
 
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長文、すみません。
再生会議も、あんなに多種多様な構成委員(ヤンキー先生に、ワタミの社長に・・・)で
完全にすべてが包括された提言をまとめるのは、さぞかし難しいだろうと思いながら
たとえば、上記のような話の、事の発端になってくれるといいなあ、と
やはり期待の目をもって見ています。
 
がんばれ、再生会議!!
 
 
 
 
 
 

2007年02月02日

字を書いた!

 
おどろくことに、タイシ、突然、字を書いた。
 
ちょうど3歳になった昨年末くらいから、絵本や新聞や広告やテレビ画面をみて
「タイシの“た”!」とか、「5!」とか読むようになって、
微笑ましく眺めていたところでした。
 
先日の風邪の最中、保育園に「今日はお休みします」と
私がFAXを書いていたところ、「たいちゃんも書く!」と、ミミズが這ったような絵(字?)を書き始めた。
 
   writing 006.jpg
 
ママ: じょうずに書けたねぇ。 
    「たいしより」って、ママが書いてあげようか?
タイシ:たいちゃんが自分で書く!
 
・・・といって、突然、書いたのがコレ↓。・・・笑。                                                   なんか、「たいし」って書いてあるーーー笑!!!
 
   writing 005.jpg  (できあがり→) writing 001.jpg
 
 
仕事柄、幼児向けのひらがなのおもちゃや絵本も作ってきたけど
その中で、だいたい頭に入っていた文字習得の発達の順序では
 
まず、自分の名前などの文字に興味をもって → ひらがなの拾い読みがはじまり                               → 50音が読めるようになっていく。
 
読みの習得に平行してクレヨンのお絵かきなどで運筆力が高まり                                          → 縦の線、横の線が書ける→ 円が書ける → 波線 ・・・                                           などの発達があって、その延長線上で、ひらがなを書くようになっていく・・・
 
と頭でっかちに理解していたもんだから、突然のことにびっくりしたのでした。
 
これをみたshun(夫)は、半分冗談で「簡単でよかったね。タイシの名前。」
・・・たしかに。ほとんど、直線で書ける。笑。
 
ばりばりの鏡文字で、かつ、「た」と「い」が合体している素晴らしい(?)創作文字ですが
すっかり気をよくしたタイシは、何度も、この創作文字を書いて楽しんでいるのでした。
 
でも、ありがたかったのは、このFAXを送った保育園の対応。
ちゃんと担任のおとなが、クラスの子どもたちと、タイシからの手紙を、                                     声に出して読んでくれていたのでした。
 
担任:「たいちゃんからお手紙だよ!!“おねつがあるので、やすみます”だって。                                 あー、“たいし”って書いてあるよー^^」  
子ども達:「ほんとだー^^」
(翌朝談)                                                                                                              このことも、とてもタイシを喜ばせました。
 
3歳ー5歳のうちの成長の楽しみのひとつが、文字の読み書きができるようになっていって
それによる世界の広がりがあること。
 
文字習得のすごいところは、親からの語りかけ(ことば)を待つだけでなくて、
自分でなにか情報をもとめて、ありとあらゆるところから、                                           自分で情報をとってこれるようになる、ということですよね。
(絵本や図鑑を自分で読み始めたり、おとなの本や新聞をのぞいたり、                                   外で看板や商品名を読んだり、それらを書いて伝えたり・・・)
 
わーい、これからを思うと楽しみだな!!
たくさん、自由に、世界を広げていってほしいな。
たくさん観察して、こちらも楽しんじゃおうっと。笑。
 
 
 
 
 

2007年02月01日

りんごの木


読書三昧だった1月、とても素敵な本に出会いました。
1番目によかった本は、やや難解な脳科学の本で、2回も読み直さなくちゃ解読できない本だったのだけれど(とてもおもしろかったので、その話はいずれ、また。)
 
その息抜きに手にとったのが、この本。
 
『子どもを叱りたくなったら読む本〜子育てでいちばん大事なこと』                                     柴田愛子(学陽書房)
 
私がこの本の編集担当だったら、もっと違うタイトルをつけるなー。
ネガティブなタイトルキャッチとは、ちょっと違う印象を受けました。
 
とても前向きに、自然に、子ども目線で子どもを描いた、物語のような、                                                             ママのための育児書。
 
「そうそう、子どもって、こんないいところがあるよねぇ」と思わせる、                                                               数々の笑いと涙のドラマがつづられていて、
 
親として、毎日がキラキラしてる子どものそばに寄り添えることの幸せ、
職業人として、子どもに関わる仕事に出会えたことの幸せを思い、
思わず、ため息がでるような一冊でした。
 
柴田愛子さんは、「りんごの木」という                                                        子育て・幼児教育全般に関わるお仕事を幅広くされているので
保育者としての視点で描かれていますが、無理のない、自然な子どもとの関わり方が
とてもしっくり、胸にひびきますよ。 オススメです。
 
週末、柴田さんの講演会に出かけるので、その前に、と思って、                                      この本を手にとったのですが、とても週末が楽しみになり、、、、                                         ひとりで行く予定でしたが、shun(夫)を巻き込んでみることにしました^^。
 
またご報告します♪ 
 
 
 
柴田愛子さんと「りんごの木」のHP 
http://www.lares.dti.ne.jp/~ringo/

2007年01月27日

病児保育は適正か

タイシが風邪で熱を出しました。
夏以来だから、本当にひさびさ。 だいぶ強くなったものです。
 
ところで、日本で、病児保育のニーズ増が止まらない。
 
  ※病児保育=子どもが病気のときに、保育園にはやれないから、別のところで預かってもらうサービス。
 
親ニーズの増える勢いに対して、公的サービスが追いつかないから
各地で病児保育を展開するNPO法人が増え、働く親たちの支持を受けている。
 
これって、適正か?
もう少しいうなら、子どもの育ちにとって、適正か?
 
いうまでもなく、子が一番、親にそばにいてほしいのは、病気のときだろう。
手を握ったり、湯冷ましをもってきてくれたり、リンゴをすってくれたりするだけで
安心して、ぐっすり眠れたものだ。
 
それが、普段の保育園ともちがう、まったく知らない場所につれていかれ
なじみのない顔の看護婦さんや保育士さんに看護され、
そこがどんなに居心地のいい環境が整えられ、優しい人たちであったとしても
38度、39度も熱があるような子どもが、ぐっすり、心身ともに休むことができるのだろうか。
 
そして、その子が大人になったとき、どんなふうに、そのことを思い出すのだろう。
 
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私の職場は比較的、めぐまれていて、
子どもが熱を出したなら、親が休んで当然、という雰囲気がある。
 
でも、暗黙の了解で、続けて休んでも、せいぜい2日。
3日間つづけて休んだら、職場での責任放棄とみられてもしかたない。
少なくとも私の中ではそのルールがあるので、
子どもの熱が長引いたり、伝染性の病気である場合には、
私が2日休んだら、その次の日は、夫か実母の出番となるように、段取りを組む。
 
あとは皆がよくやる手だが
夫と自分が、半日出勤ずつにして、お昼に交代する手段。
私の場合は、平日に休んでしまった場合、夫が休める土日のいずれかに
誰もいない職場に出勤して、一気に仕事を回すこともある。
最悪のケース、平日の夕方、夫に定時に帰宅してもらって、                                      夜の2、3時間だけ、私が出勤するとか。
でも、とにかく、そういう姿勢をみせることが、職場にとっても、大切。
 
では、夫が忙しくてそうもできない、とか、実家が近くでない、という人たちが                            どうしているかというと、なんと、北海道やら四国やらから、                                  実母・義母の飛行機代を出して、来てもらうこともある。 
 
まれに、10人に1人くらいの割合で、私の職場にも
「子どもより、断然、仕事優先。 夜間保育でも、病児保育でも、ベビーシッターでも
ありとあらゆる手段を総動員して子どもを預け、とにかく仕事で成果を出す。」という人もいます。
 
10人に1人くらいなので、私なんかは、職場でそういう話になると
「それは、人それぞれの価値観ですから、、、(でも私は違います)」と、                                きっぱり言い切っている。                                                          (かといって、「成果を出さない」といってるわけでもないわけです。                                      成果も出すけど、子育てだってちゃんと納得のいくようにやる。                                 言いたいのは、、、「バランス」です。)
 
でも、10人に9人が、「仕事優先しまくり」だったらどうだろう。
(皆が、夜間保育や病児保育をあたりまえのように使いこなし始めたら、どうだろう。)
私は「人それぞれです」とも言い切れなくなり、
なんとなく、職場の雰囲気的に、「世の中には、夜間保育も病児保育も、                            ベビーシッターもあるんだから、そういうサービスをもっと使えば?」と、                               強要されているような気持ちになるだろう。
 
そんな職場、そんな世の中はきっぱり、御免だ。
 
でも、世の中的に、
「子どもが病気のときくらい、お母さん、休んでいいよ」という職場が増えるのではなく
「病気のときは、お子さんを預かりますよ」というサービスが増えるというのは
私が危惧する、いやな回路だ。
 
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だれも、好きこのんで、病気の子どもを人に預ける親はいない。
みんな必要に迫られて、のことだ。
 
たとえば、シングルマザーで看護婦さんだったらどうだろう。
自分が働かなければ子どもを食べさせていけないし、夜勤だってあるだろう。
 
夜間保育や病児保育も、そんな人にとっては、生きるために必要だ。
だから、全部は否定しない。
やむをえず、そういった選択をする親を責めるのは、追い詰めてしまうだけになる。
 
でも、世の中全体としては、職場のワークシェアが進み、
時短勤務でも、在宅勤務でもわりと自由に選べ、
子どもが病気のときくらいは気兼ねなく休める、
(もちろん、その中で、働く者としての社会的責任はまっとうする)
 
そんな会社が増えるような社会整備・政策がのぞましい。
 
 
それは、繰り返すけれど、なにをさておいても、とにかく、子どもの育ちのために。
 
母の手は万能だ。
痛い子どものおなかも、温かくてやさしい母の手で、なおるものなのだ。
 
この温かさを経験して育っていく子どもたちが、
かならず、次のあたたかい社会を作る。
 
 
 
 
 
 

2007年01月18日

3歳の人権

あわただしい平日の朝こそ、「ひと騒動」「ふた騒動」も、起きるものである。
子は親の鏡。
親の余裕のなさが、そのまま、子に出る。 とほほ・・・。
 
ところで、今朝の「ひと騒動」はものすごい迫力でした・・・。
 
朝食のあと、なにげに、保育園で作ってもらった子ブタのお面を探し始めたタイシ。
『三匹のこぶた』の、あの、「ちいぶたちゃん」のお面です。
 
タイシ 「ないなあ。・・・ないよ?・・・どこだ?」
 
・・・やばい。もう数ヶ月前からあるそのお面は、かなり、ボロボロになってきていたので
先日の掃除のときに、こっそり、私が捨てたのであった・・・。 ・・・これはやばすぎる。
 
私 「(うーん、うーん、なにかいい案はないか?)あれ? おかしいね?                            あ、かぼちゃのお面はあるよ。こっちにすれば?」
タ 「ちがう、ちがう。 ちいぶたちゃん・・・」
私 「・・・・(しかたない、正直に言うしかないよね)。そうだ、もう破けてきちゃってたから、                     ママが捨てちゃったんだった。ごめん・・・。」
 
・・・・しばし、沈黙・・・・。  ・・・・のあと、すさまじき、号泣、号泣、号泣・・・。 
わーん、こうなっちゃうと、ママも泣きたいよーー。えーん、えーん。
 
何度も謝って、「今晩、新しい“ちいぶたちゃん”を作ってあげる」という約束を取り交わして、
ようやく、和解。                                                                しかし、会社に遅刻しないための出発時間をすでに10分経過。 がーーーーん・・・。
 
でも、とにかく、今回はカンペキに私が悪かったのでした。
タイシの宝物を断りもなく捨ててしまうとは、まったくもって、人権、無視。
 
夕方、保育園から帰宅後に、つぶやいていたタイシの言葉が胸にささったのでした。
「ちいぶたちゃん、哀しいだろうねぇ。 ゴミ収集車に乗るの、イヤだよねぇ。                            かわいそうだねぇ。」
 
そうか、ちいぶたちゃんに、そこまで思い入れがあったか・・・。 
大切な友達が、ゴミ収集車に乗せられるのは、確かに切ないよなあ・・・。
所詮、紙でつくったお面、と思って捨てたママが安易だった・・・。
 
そして、へこんだ私へのshun(夫)からのメール。
 
「これからは、おとなに接するのと同じように、タイシに接しよう。                                   大人の持ち物だったら、断りなく捨てたりしないだろ?」
 
本当に、そのとおり。
3歳だって、やっぱり、立派な一個の人間なのでした。
大切なものがあり、思い入れというものがあり、                                             なにかをいとおしむ気持ちもちゃんと持ってる。
 
反省。
もう赤ちゃんじゃないもんね。
ひとりの人として、彼の尊厳を大切にしながら、人と人として、つきあっていこう。
 
 
で、こちらのかたが、新しい、ちいぶたちゃんです。
ちいぶたちゃんといいつつ、ちょっと、オヤジな出来具合・・・^^;
でも、タイシは気に入ったようです。

プーさん、ごめん、主役じゃないのにかりだしました^^。
 
pig.jpg

 
  

2007年01月14日

理想的な育休期間は?

タイシ、現在3歳2ヶ月。
通りすぎたから言えることなので、微妙ではありますが、
「理想的な育休期間って、いったいどのくらいなんだ???」という、微妙な疑問への答えが
自分なりに出たので、書き留めておきます。
 
どのくらい親とべったりいたほうがいいか?ということについては
個人差ありまくりの話なので、本当は、その子の様子と、自分(ママ)の様子をみながら
個々人が自分のペースで休み期間を決められる、というのがいいですけれど
会社という社会の歯車に噛みあわなきゃいけない以上、会社が設定するルールに
ある程度、のっからなきゃいけないですね。
 
フリーで自分のペースを確立できており、子どもの様子をみながら、                                                   仕事量の微調整ができる人は、本当に、この意味で、理想的だと思います。
 
さて、私は1年半で職場復帰しました。
 
ですが、振り返って総括すると、、、、 
うちの子にとっては、2歳〜2歳半の職場復帰が、一番理想だったように思います。
 
●2歳前は・・・
 
1歳台は、ちょっとやはり、早かったかも。                                                                         2歳を過ぎたころから、曲がりなりにも、「ママは会社へいき、ボクは毎日、保育園にいく」という意味がわかってきます。理解せずに、わけわからずに保育園にいくのと、理解して保育園にいくのとでは全然ちがう。 許されるのであれば、もう少し、彼の心の安定と、家族や生活への理解ができるようになる時期をまってからの入園(職場復帰)でもよかったなあと思う。・・・その頃は、職場にとっては無謀な3時半退社を約束させてもらい、私なりにMAX                                                       がんばったとはいえ、それでもやはり、少し無理をさせたな、と思っています。正直に。
 
●なぜ、3歳じゃないか?
 
通常の3年保育の幼稚園に入園するとなると、来春のタイミングですが、タイシについていえば、2歳〜2歳半ごろから、彼は、あきらかに、家族以外の他人との社会的かかわりを求めていたなあ、と思うのです。
たとえば、3歳のタイシにはすでに、「親友」が保育園におり、その親友(はるくん)とのかかわりは親でも祖父母でも代替できない、深くて特別な人間関係なわけです。同時に、親や祖父母以外の「心から信頼できるおとな」とも出会い、それぞれに信頼関係を確立しています。
 
別に保育園じゃなくてもそういう社会的交わりをしていけばいいのだと思いますが                                            横に親がいるのと、親がいないところでできる関係性はまた別のものがあるから、今のタイシの社会性や他人との関わり方をみると、とても自然で、保育園という場があったから
できたことだなあ、と思うわけです。
 
●もうひとつ、保育園のメリット
 
親の私には提供しえない、ありえない、ダイナミックな遊び方をするようになりました。                                          土手をダンボールで滑り落ちるとか。 斜面を体ごと、ゴロゴロと転げ落ちるとか。                                            うっそうとした藪(やぶ)の中を、ヘビに攻撃されないように歩くにはどうしたらいいか?とか。
(タイシが説明してくれましたが、そういう体験のない私にはよくわかりませんでした。笑。
休日にその藪に案内してもらった夫はよくわかったようでした。)
・・・あ、田舎暮らしであることがバレますね。笑。
 
同い年の子たちと、集団の中で遊ぶからこそ、育っていく野性味とか、勇気とか、社会性が     
あるんだなあと思いました。
 
結論。
一般的には、1歳〜3歳くらいまでの間で、親が自由に育休期間を選べるようになるのが、一番、のぞましい。
親が、その子と自分をみて、どんなライフスタイルが一番いま、のぞましいのかを判断して
自由に選べるのが、子育ての観点からは、一番、理想的。
 
逆に仕事をしない立場であれば、幼稚園入園前に、子どもの環境として
どのような社会との交わりの場を用意してあげるのかは、わりと、親にとって重要な役割なんだなあと思います。
(昔の社会では、あえて用意なんてしなくても、自然に、人との交わりのある社会だったのだと思いますが)
 
私の属する職場の育休期間は、子どもが1歳になった年の年度末まで、というのが最長です。(なので、4月生まれの子は、親が休もうと思えば、2歳直前まで休める。3月生まれの子は長くても1歳ぴったりまで、になっちゃうので、不公平にならないように、1歳6ヶ月まで、という選択肢も用意されています。)
世の中の流れとしては、3歳まで、というところが、もう少し増えていくでしょう。
 
逆に、短すぎる育休の取り方をすることには、個人的には反対です。
母乳を必要とする時期(1歳くらいまで)や、まだ、あんよができない時期(やはり、1歳前後まで)は、物理的に、哺乳類として、親とは切り離せないようにできているんだろうと思うからです。
 
母乳がなくても食べ物から栄養がとれる。                                                                  危険があったときや、なにか欲しいものがあったときに
自分の力で移動できる(あんよできる)。                                                                      ・・・これらの条件がそろう1歳前後が、親が信頼できる保育者に一定時間だけ代替をお願いするということを考えてもよい、哺乳類としての最低条件のように思います。
 
そうはいっても、職場がね、ということもあるし                                                                        職種によっては、1年休むことが打撃的にマイナスになることもあるのかもしれませんね。
また20年前は、産休はとれても育休をとれるところのほうが珍しかったわけだから、ほとんどの人が1歳未満で復帰したのでしょうね。
 
その頃を思えば、だいぶ、育休をとりやすい社会環境にはなりつつあるんでしょうけれど
それでもまだ、改善の余地はいろいろあるよなあと思う、今日このごろです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2007年01月10日

笑いと成長ホルモン

3歳になった息子は、朝から晩まで、笑っている。
ギャグをいってみたり、ダジャレをいってみたり、おどけポーズをとってみたり
なんだか、しきりに、ネタを創出しては、自分で大ウケしている。
(まあ、3歳児なんで、ネタのレベルは、たかが知れていますが・・・^^)
 
ときには、朝、目覚めたとたんの一発目で、おもしろおかしいことをいって、                                            大笑いしちゃったりするから、あれは、なにか考えてそうしているというより、                                               ほとんど、本能でやってるとしか思えない・・・笑。
 
言葉をたくみに操れるようになったから、というのも一因だとは思うけど、
いったい、あれは、なんなんだろう。
 
日に日に、体も心も顔つきも、めざましく成長していく彼をみていると
なんだか、笑うことをエネルギーの源にして、笑うことでさらに成長が加速していってるようにも見える。
 
・・・笑うことに比例して、                                                                             成長ホルモンって、余計に分泌されてたりするんじゃないの!?!?
 
睡眠をちゃんととることで、夜のうちにホルモンが生成されるって話はよく聞くけど
笑いが関係するって話は聞いたことないなあ。
 
誰か、知っている人がいたら、おしえてください。
 
病気の人が笑うようになると、自然治癒力が増すとか
学校教育にユーモアを取り入れたら、生徒が能動的になったとか
そういう話はありますけどねぇ・・・。
 
まあ、楽しい分にはよいです。
明日も、笑いに巻き込まれちゃいましょう。
 
 
 

2007年01月08日

flexibility

今年は幸運に長かったお正月休みも、今日でおしまい。
ゆったりと過ごせたおかげで、普段はなかなかできない
「読書にふける」という優雅な?時間もとれました。
 
何冊か手にした育児書や発達心理学の本の読後感を1つだけ。
(いろいろ読後の想いはあるのですが、一度には書ききれないので、1つだけ。)
 
『多様性』を前提として受け入れていない類の育児書は、ニセモノである。(←断言。)
なにか特別な育児論を「ぜったい」と言い切ったり
ある方法論が、誰にも彼にもあてはまるというように論じられているものは、                                                あまりに浅はか。  (・・・と、私は思う。)
 
 子育てに「絶対」はないし、「たった一つの正解」は、ない。
 
何度も書いたけれど、その子どもにとっての正解は
その子自身か、その子の親自身か、あるいは、その子と親の間、にしか存在しないから
他人にはわからないし、その正解を一般化するのはむずかしい。
 
「そりゃ、あなたの家ではそうかもしれないけれど、うちの子はちょっと違うのよね」
ということが、いくらでもある。
 
様々な価値観や、性格、人間性をもった親のもとに生まれ、
さまざまな家庭環境、親の就業状態、人間関係があり、
なによりも、その子どもがもった、唯一無二の個性があり、
 
その分だけ、子育ての形も、千差万別、百人百様の多様性があって当然だし、                                              それが自然。
 
だから、なにか方法論のようなものを押し付けるような育児書は好ましくないと思う。
迷ったり、不安に陥ったりするママほど、それを、そのまま受け入れてしまうことがありえるから。
逆に望ましいのは、親自身に考えさせたり、知恵を授けたり、                                                          目の前の子どもに対して敏感になることを促すような育児書だと思う。
 
というのは、『多様性』を前提とはするけれども、
「だから、どんな子育ての在り方でもいい」と開き直るのは、ちがうから。
 
このお正月も忌まわしい事件(火事)があったけれども
2歳の子どもをアパートの部屋にとじこめて、パンとおにぎりだけをテーブルに置いて                                         (エサか!)鍵をかけて、友達とスノボに出かけるなんてことは、                                                      世の中がどうひっくり返っても、あってはならない。
 
『多様性』は前提なんだけれども、それは、                                                                 親自身が賢く「選びとる多様性」であるべきだと思う。
「世の中には、こんな子育ての方法もあるし、あんな方法もある。                                                                   でも私は、目の前のこの子をみて、こうしたほうがいいと思うから、こうする。」
という意味での多様性。そこには、親の知恵と柔軟性と決断が伴う。
これが理想的。

 
あ、もうちょっと柔らかくいうと、ひと昔前は、こんな感じだったでしょう?きっと。
「○○さんちは、子どもにこんなしつけ方すんだなあ。
△△さんとこは、こうだべなあ。
だけども、うちの子は、こっちのほうがいいから、こうしとこうなあ。」 ということです。

(なぜか、訛ってますが^^。)
 
現代版に置き換えれば、こんなサービスできないかなあ。                                                               公共の福祉でやってもビジネスでやってもいいけれど。
出産前の母親学級なんかを利用して(両親学級でもいい)。
出産の心構えや、おむつの替え方だけでなく、 
はじめて親になる人が、自分の子育てのやり方を決めていくための事前準備として、
知恵と柔軟性を備えるためのコンテンツ。
(本当の勉強はもちろん、子どもが生まれてきてから、その子を見て、ということになるんだけど、それ以前にしておいたほうがいいことも、たくさんある) 
 
たとえば、こんなワークショップ形式で。
 
@まずは、ママ自身が興味のあるテーマを選ぶ。 興味ある分野からなら、入りやすい。
 
 テーマ例 「母乳」 「小児栄養」 「絵本」 「乳幼児期のおもちゃ」「発達心理」 
       「パパとの協業」 「保育園に預けるということ」
       「親の語りかけと言葉の発達」 「小児医療と予防接種」  ・・・とかね。
 
A事前課題。選んだテーマにあった、課題図書を複数、読み込む。 
 10冊とか、とにかく、そのテーマで、現在、主流となったり話題となっている本を課題図書として掲げ、参加者は、それを読み込んでくる。
 
B課題図書を読んだうえで、ディスカッション。
 構成人数は6人くらい。専門家は入らないほうがいいが、進行役のプロはいたほうがいい。
 そのほかは、現役ママが半数、妊婦さんが半数。
 
 ひとつのテーマについて、語る。
 「世の中には、こんな考え方がある。 現在の主流やその理論、反対意見はこんな感じ。」
 「そのうえで、自分はこんな考えをもって、こんな子育てをしている(現役ママ)。」
 「自分がママになったら、こんなふうにしてみたい(妊婦ママ)。」
 
 Cこのワークショップのゴールは
  「それぞれのママが、人の考えや世の中の考えを知ったうえで、自分がしたい子育てをイメージする」こと。
 
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3世代同居があたりまえで、親戚のオジサン、オバサンが周囲にたくさんいて、                                          外に出れば子どもがあちこで駆け回っている・・・ような時代には、                                                    子育てのケーススタディは、自分がママになる前にいくらでもあっただろうけれど
今は、赤ちゃんを抱っこしたことのない人が、いきなりママになることだって少なくない。
学びの場があまりに少ない。
 
私は基本的には、「一般的に、本能で子育てできる」と思っているけれど
「本能で、子どもを置いて、スノボにいっちゃう」親もいるわけだから、
ある程度の、親の学びの場は必要なんじゃないか。
 
学んで、知恵があれば、ゆとりをもって自分の子育てを、決めていくことができる。
 
堅いかなあ。
まあ、自然に学びが受け継がれていく社会になっていれば、それが一番ですけれどね。
私は入っていませんが、育児の自主サークルや、児童館、公園のママ友なんかでも
自然にそれができているところもあるかもしれませんね。
 
でも、意外にママ同士って、遠慮深いんですよね。 育児が多様であることを知っているから、相手の領域に踏み込んで議論するのは、よっぽど親しい友人でないと、なかなか。
 
どこかで仕掛けて、「育児不安」とか「なんとなく孤立、孤独」とかの状態にいるママ達も
フレキシブルに、自由に、賢く、子育てに向かえるようになるといいのに。
 
なんか、仕事モード半分のつぶやきになってしまいました。
長文、すみません。 ある種、仕事半分、私生活半分の、私のテーマなのです。
 
なにかご意見あれば、ぜひコメント残していってください^^。ぺこり。 
 
 
 

2006年12月24日

クリスマスの卒乳

昨年のクリスマスのことを思い出します。
ちょうど1年前のこの夜、タイシは2歳1ヶ月で、おだやかな卒乳を迎えました。
 
「いつまでおっぱいをあげていいの?」とか
「(むりやり、おっぱいをはずす)断乳?                                                                        それとも(自然に、おっぱいから離れられる)卒乳?」と、悩ましい、1−2歳期。
 
WHO(世界保健機関)では、6ヶ月までは母乳だけで育てること、
2歳すぎまで母乳をあげつづけることを推奨しています。
 
日本では、1歳児検診や小児科などで、授乳の状況は確認しながらも
昔のように「そろそろやめなさい」ということは少なくなり、
「1歳〜2歳くらいまでで、お母さんの状況にあわせて」とアドバイスするところが増えているようです。
 
助産師さんには、母乳推奨派が多いので、「ママがあげたいときまであげればいいのよ」という人もいますし、反対に、歯医者さんなどは、虫歯を心配する観点から
「歯がはえてきたら、寝る前のおっぱいはよくないので、断乳がのぞましい」という人もいます。
 
結局、いろんなことをいう人がいるので、決めるのは、自分(ママ)です。笑。
とほほ、むずかしいですよね。情報ばかりが多くって。
 
タイシは、離乳食をよく食べる子だったので、1歳のお誕生日には、自然と、食生活のリズムが安定し、昼間は、ごはんだけで十分、となり、甘えと寝つきのために、夜の添い寝おっぱいだけが1歳から2歳の間、つづきました。
 
私も仕事に復職し、子どもとべったりいたい気持ちもあり、                                                         できるだけ長くあげようと思っていました。
 
でも、「なんか、これは、タイミングだけの問題で、もうおっぱい卒業できるな」と思ったり
「うーん、実は、お酒、飲みたい」とか^^。 
(夜だけのおっぱいになってからは、ランチだけは、ワイン飲んだりしていました。                                              あはは・・・)
 
私の勝手な理由もあり、一度は、人の断乳体験を参考にしながら、断乳に挑んだのでした。
そりゃ、「卒乳」がのぞましいとは思ったけど、おっぱい大好きなタイシが
「自然におっぱいが卒業できる」イメージが、まったく、もてませんでした・・・。
 
さて、断乳しようとしたのは、たしか、1歳半のとき。
よくある断乳成功談は、
「3晩連続で、おお泣きするけど、親が負けずにおっぱいをあげなければ
4晩目くらいから、夜に起きることもなくなる」というものです。 
うーん、3晩か、、、短いようで、長い戦いだろうな・・・。
 
で。 これ、1夜目であきらめました。
ギャーギャー泣くタイシを、夫が抱きかかえてあやし
私は、張ってくるおっぱいをあげられない淋しさに涙し、
そんな真夜中の状況に耐えかねた夫が 
 


「・・・なんか、これ、ちがくない?」

 

・・・といいました。
・・・そうだよね、なんか、これ、ちがう。 ・・・さすが夫。
 
そう思って、「無理やり断乳」というのは、その日かぎりであきらめました。
またして、我らの本能が「ノー」をいった瞬間です。
 
それから約半年たった12月。
そうだ!と思いついて、クリスマスまでの毎日、カレンダーに1日ずつ、「×」をつけていきました。
クリスマスのなんたるかも定かではない2歳の子が、「24日になったらクリスマス」とわかるわけはないけれど「なにかの日が近づいてくる」ということは、うっすらとわかるのでした。
 
そして、教えてあげたのです。
「このばってん(×)が、ここ(24日)まできたら、おっぱいバイバイね。
そしたら、『お兄ちゃんだね、おめでとう』って、サンタさんがくるよ」 と。
 
するとタイシは、1ヶ月の時間をかけて、ゆっくり、自然に、その日を迎える心の準備をし、
そしてとてもおだやかな気持ちで、楽しみな気持ちすら抱きながら、クリスマスの夜を迎えたのです。
 
家族でクリスマスディナーとケーキを楽しみ、ゆっくりお風呂に入ってから
パパのだっこで、音楽を聴きながら眠りにおち、夜中も、ほんの少し寝ぐずっただけで
朝まで起きることもありませんでした。
 
そして。 もちろん、ちゃんと来てくれたのです。 タイシのサンタさん^^。
 
「よかったね。おっぱいバイバイできて、お兄ちゃんだね。おめでとう。」と。
 
なにかを乗り越えたような、自分の力で達成したような、
タイシの満足気な、スッキリとした笑み。 
なんとも、おだやかで、ハッピーですらある、卒乳となったのでした。
 
いまでも、おっぱいを飲んでいたことをよく覚えていて
「こうやって、飲んでたよね。あかちゃんのとき。」と話しています。
まだまだ実は、おっぱいの存在が大好きですが
それは「パパとばーばにしかいっちゃだめ」と、本人がいうので、ここではナイショです。笑。
 
1年たった今年のクリスマスは、親も子も、家族みんなの心も体も、だいぶ安定しています。
パパは、たったいま終わった有馬記念で、                                                                 4-1でディープインパクト&ポップロックをあてて、たいへんご機嫌です。
 
タイシがお昼寝からおきたら、ケーキづくりといたしましょう♪
夜になったら、パエリアと白ワインで、乾杯です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2006年12月15日

おしゃぶり論★

おしゃぶりの是非。

赤ちゃんにおしゃぶりを吸わせることには、日本では賛否両論。
私の周りの友人も、迷ったり、迷わなかったり、さまざまにおしゃぶりを愛用しています。

先日、仕事でお世話になったかたに、「どうして、おしゃぶり使わなかったの?」ときかれ
「あれ、なんでだっけ??」と、一瞬、古い記憶を呼び戻せなかったのだけれど
家に帰ってから、「ああ、そんな理由だった」と思い起こしたことを、書きとめておこうと思います。

いつものごとく前提ですが、使うも、使わないも、                                             それぞれのママが「うちの子にはこのやりかた!」と思えたら、それが一番だと思います。
とくに、ミルク愛用者は、「しょっちゅう、ミルクを吸わせる」わけにはいかない以上、                               みんな、おしゃぶりを使うみたいですね。
あとは、「おしゃぶりはとにかく、便利」というママも。
泣きのはげしい子のママが、それで、いっときでもラクになるなら、それもあり、ですよね。

と、前おきしつつ、私が自分の子育ての中で感じ取った(学んだ)、おしゃぶり論。

タイシは一度も、おしゃぶりをくわえたことはありません。
2つ理由があって、1つめはシンプル。

「似合わない」と思ったのです。
ものすごく、「男くさい顔」の赤ちゃんだったので、とてもじゃないけど、おしゃぶりは似合わない。^^;
そして、もうすこし突っ込んでいうと
「不自然かな」と思いました。 ほら、動物的?本能的?な子育てをめざしているので、
「赤ちゃんがなにかを求めているところに、おしゃぶりをくわえさせる」というのが、                                     なにか不自然のことのような気がしました。
赤ちゃんの口は、基本的には、ママのおっぱいを求めているのに                                  生(子)と生(私)の間に、なにか、プラスティックの物体が介在してしまうことが、                     なんとなく、不自然。


それが、私のおしゃぶり第一印象。

そして2つめ。 尊敬する、小林登先生の本を読んで、「ピン」ときたのでした。
要約すると、こんな感じ。

赤ちゃんは、生まれおちたその瞬間から、何かを求め、何かのサインをだして、                                     こちらの反応を、声かけを、待っている。
「おしゃぶり」という道具があると、赤ちゃんが泣いたとたん、ついつい、それを、口に押し当ててしまう。でも、「おしゃぶり」がなければ、あの手、この手を尽くして、                              ママは赤ちゃんのサインに応えようとする。
その、「あの手、この手を尽くす」プロセスが、この時期の赤ちゃんとママにとって、                     どれだけ大切な営みか。

あかちゃんが何かを求めて泣くと、ママは
「おっぱいかな? おむつかな? それとも、抱っこかな? 眠いのかな?」と理由をさがして、試行錯誤します。
あかちゃんは、ママが反応してくれたことがうれしく、最初はぎこちない親子関係も
試行錯誤をかさねるなかで、あい通じるものができあがってくる。
小林登先生はそれを「母子相互作用」といっています。
英語でいうと“attachment”です。 (ウィリアム・シアーズという小児科医がやはり似たような理論を唱えています。)

あかちゃんは、生来、「吸てつ反応」という能力をもって生まれてくるし、                                          「吸う」ことは赤ちゃんにとって心地よいことだから
「おしゃぶり」のように、吸えるものを与えられると、なんだか、それはそれで、満足してしまう。最初に自分が求めていたことを忘れて、そのまま、おしゃぶりで満足してしまうことも。

だから、「おしゃぶり」が、あかちゃんの「欲求」や、それに応える「ママ力」を
さえぎってしまうことがありうる・・・。

 

・・・というような理論が、自分の心にスッと落ちたわけです。
それで、私は、おしゃぶりを使いませんでした。 

たまたま、私はこの方法論をとっただけで、この賛否の結論はどこにもありません。
最初に書いたように、ママがラクになれたり、赤ちゃんが心地よいのなら、それでいいのでは、という話も別のところでは、あります。                                                         じゃあ「おしゃぶりを使っていると、母子相互作用が働かないのか」というと、                                           まったくもって、そういうわけではないですしね。

 
でも今思うに、


たしかに、あの、涙ぐましい「試行錯誤」は、あの時期ならではだったなあ、と。                      しみじみ思うわけです。
3歳になった今では、すべて、言葉が介在して関係性が築かれていく。
あの、「本能」と「本能」のぶつかりあいというか、「泣き」と「あやし」の真剣勝負というか(笑)、そんな1歳前の数ヶ月のことがとてもなつかしく思い出されます。

 
今が「真剣勝負中」のママさんに、少々、身勝手に聞こえる子育て論だったらゴメンナサイ。

自分の記録のために書きましたが
あくまでひとつの意見として、聞き流してくださいね^^。

 
 
 
 

2006年11月18日

ものの成り立ち

できるだけ、「ショートカットをしない」子育てをしたいと思っている。
 
意識せずに漫然と子育てしていると
魚の切り身を「魚そのもの」と思って食べ
洗面所で手をかざせば、センサーで水が流れ出し
誰とでも、どこででも、携帯ひとつですぐつながる、そんな時代に暮らしている。
 
便利なものがあふれ、なに不自由することなく暮らし、
自分だって、そうやって育ってきたのだけれど
「地にしっかりと足のついた人」に育ってほしいから
便利な社会に対する、あまりにささやかな抵抗ではあるけれど、「ものの成り立ち」や      「ありのままの姿」を伝えることには少しだけ、こだわりたい、と思っている。
 
・・・と難しくいってみても、実際にやっていることは、シンプル。^^
 
たとえば、 
 
我が家では、意識して、食後のフルーツは、食卓の上でナイフをいれる。
リンゴをリンゴとしてみせ、赤いリンゴも青いリンゴもあることも                  生活の中で気づけるようにする。さっき、スーパーで買ってきたものであることから、生活の流れもわかる。そしてときには、メロンであっても、実際に手に抱えさせてみる。(というか、やりたがるんだけど^^;)
重さとか、匂いとか、堅いとか、柔らかいとか、そのもののありのままを感じてから、ナイフをいれる。・・・と、おいしさも、楽しさも、また違う。
 
私がそんなことに意識をしているからかどうか、はわからないが
タイシは、初体験の食材が出てくるたびに、「これはどうやって、なってるの?」とか、「畑でお百姓さんがつくってるの?(それとも)海でとれるの?」などと聞くので、そのたびに、   絵をかいたり、うちにある本の写真をみせたりして、説明してやる。


ぶどうは白い袋につつんで、大事に大事に育てるんだよ、とか、このお肉は、ぶたさんだよ、とか、この葉っぱ(海草)は、畑じゃなくて、海から生まれたんだよ、とか。 


おもしろがって聞いている。しきりに、絵本や誰かとの話に出てきたことなんかの      自分の記憶と結びつけて、想像をふくらませている。
 
レンジでチンも、「IHクッキングヒーター」で火をみることなく料理できちゃうなんてことも
我が家の日常生活の中でも「あたりまえ」になってしまっているなかで、                           私ができる「遠回り」は、ああ、なんて、ささやか・・・。
 
そういえば、鳥を絞めるのを、見たことがありますか?
 
私は日本でそういうチャンスに出会えずに、                             なぜか、ベトナムの田舎のほうを旅しているときに庭先で、にわとりの羽をむしり、皮をはぎ、ジャカジャカ洗っているおばあさんに出会い
一部始終を見学させてもらったのが、たった一度の経験です。
 
毎日のように食べているものの現実を、一度も見たことがないということが
なにかとても不自然のような気がして
海外を旅行する際、チャンスがあれば、街の市場の食材売り場なんかを覗いてみるようになった。
 
世界の台所の香港の市場なんかをのぞくと
まだ、ヒクヒクしてる、豚の耳や足やらが、たくさんぶらさがっている。
調理台の上で、マジシャンのような手つきで、                             内臓をさまざまな部位にきりわけていくオジサン。
血生臭さと異様な熱気の中で、気持ち悪いなーと思いながらも、「見とかなきゃ」という思いで、見てまわる。
『食の実際』はそこにあるわけだから。
 
もうちょっと身近で「いいなー」と思う食育の例は、タイシの通う、保育園。
 
子どもたちに、キノコを育てさせ、おやつの時間に、ホットプレートで焼いて食べてる。
有機農法をやっている山形の高畠という地区の農家と契約していて、毎日そこのお米を食べているのだが、なんと、毎年、春と秋には、保育園の職員や保護者が、援農に出かけ、 田植えやら稲刈りやらを手伝っている。
そして、春にはいくらかの苗をもらってきて、子どもたちは園庭のベビーバスで大事に育て、
収穫できたら、すり石をつかって脱穀し、飯ごうで炊いて食べるのである。
・・・ワンダフル。・・・パーフェクト。 拍手を送りたい。
 
大人になると、ショートカットばっかり。
便利なものたちの一番上にちゃっかり座って
すべて自分の能力でなんとかできているような錯覚におちいる。 

それが「当然」となっていくことの怖さ。
 
子どもが小さな今だけは、あえて「遠回り」を選ぼうじゃないの。
 
ものごとの成り立ちや、多様性や、残酷さや、懐の大きさに
敏感に気づけ、思いを馳せることができるような人になりますように。
 
 
 
 
 
 
 

2006年11月04日

我が家流トイレトレーニング

保育園に通園させている人で、ときどき、
「生活習慣は、なんでも保育園が教えてくれるから、ラクだわ〜」という人がいますが
私は、「なんでも、とにかく自分で教えてみたい」と思う、親でした。
 
赤ちゃん・幼児に関わるお仕事をしてきた私なので
いままで、自分が企画したり、世に出したりしてきたもの達の方法論、理論、コンセプトが、本当に正しいのか、とにかく試してみたかった^^。
 
その象徴的なものが「トイレトレーニング」。
 
保育園では通常、2歳クラスの子たちが、夏ごろからはじめるのだが、
「こんなに楽しみにしてきたことを、保育園に先にやられちゃ、たまらない!」と思った私は
保育園の先生がたの反対を押して、思い切って、1歳の夏に、始めたのでした。 
 
昔は、1歳半くらいからのトイレトレーニングが普通でしたが、
日本の現在の主流では、2〜3歳。 ほとんどの育児書でうたわれていたり、多くの乳幼児の専門家がいうのは
「早く始めすぎないほうがよい。 体と心の機能が整う、2歳すぎてからはじめるのがよい。」とのこと。
(無理にはずす)「おむつはずし」という言葉が嫌われ、(自然にできるようになるのを待つ)「おむすはずれ」という言葉が使われたりもする。
 
で、私も、仕事柄、数々の“トイレトレーニング成功談” “失敗談” “お笑い談”に触れてきてきたわけですが、
一番、「ピン!」ときたのは、あるテレビ番組でみた、タイの子のトイレトレーニング。
 
熱帯で暮らすタイの子は、下半身はいつも、パンツ一枚。もしくはそもそも、はいてない^^。
おもらししても、すぐに乾いちゃうので、オムツもしない。
家の中だって、すぐ乾く。 だから、親もまったく気にしない。
自然におもらしを繰り返す中で、しょっちゅう、「出ちゃった→濡れちゃった→気持ちわるいなー」という感覚を味わうので、1歳過ぎに、どの子も、トイレでできるようになるとか。  早い子は、1歳前にとっちゃうそうです。
 
私は、数多くのトイレトレーニング談を耳にしてきたなかで、これが一番、ピンときた。
 
体の機能とかもあるんだろうけれど、「あれがほしい」とか「これがしたい」とか、十分に意志表示できるようになっている2〜3歳の子が、自分にとってあまりに身近で、基本的なことである「おしっこ!」がいえないほうが、不自然のような気がなんとなく、以前からしていた。
 
というわけで、1歳半で迎えた夏に、思い切って、オムツをはずして、身軽なパンツ一枚にしてやったのでした。
(実際、オムツは暑いし・・・。それに、1歳ちょうどくらいから、おしっこが出たあとで、教えてくれたりしていたので、息子にとっては、けして、早いタイミングでもないように思えた。)
 
で、もちろん、最初は、おもらし連発しましたが、最初から、こちらの覚悟ができているので、余裕をもって受け止められる。
リビングに、おもらし用のタオルを常備して、「はいはい、おしっこね。今度はおしえてね。」と、さっと拭いて、おしまい。
 
・・・としているうちに、息子は、「あー、でちゃったー」の感触を繰り返し、1ヶ月もしない間に、
「おしっこ出る!!」と教えてくれるようになったのでした。。。。  「あっ」という間でした。
 
ちなみに、保育園でも、「パンツ移行期間」は、「オムツをはかない」協力をしていただきました。一瞬、「もう始めるんですか?1年、早いですねぇ・・・」と渋い顔をされたけれど、私がひるまず熱心にお願いしたところ、「おうちでそういう方針をお持ちなら、園でも同じ環境にしたほうがいいですね」と快く、パンツ協力をしてくださったのでした。感謝!
 
あー、おもしろいなー。 
子どもによって違うから、2人目はまた、ちょっと違うトイレトレーニングになるでしょう。
でも私は、なんというか、理論づくしでいくより、人間だって動物だから、その本能に頼るような子育てのしかたが好き。
 
「体の機能が・・・」とか「保育園ではじめる次の夏まで・・・」とか思ったら、2歳、3歳まで始めないかもしれないけど、「この子できるな」と思ったら、ぱっとやっちゃう。  でも、そのかわり、覚悟をきめて、ゆったり構えてると子どもが、ちゃんと「できるようになる」能力をもっている。 
 
結局、私がしてやったことは、「オムツをつけない」ということと、「広告に踊らされずにトレーニングパンツすら、買わない」ということと、「乾いたタオルを常備する」ということだけで、息子が勝手に、自分で、できるようになったのでした。
 
人に惑わされずに、自分が「コレだ」を思うやり方でやってみて、楽しかった子育て方法の、ひとつです。

 

長文すみません、忘れないうちの、記録。
 
 
 

2006年10月18日

Water! Water! Water!

ヘレンケラーが、井戸水を汲み上げながら“Water!”と叫ぶシーンがある。
「水」というものに、[water]という名称があることに気づいた瞬間だ。
 
似たようなことが、タイシの10ヶ月のときに起きた。
親の自分も、驚嘆するような、まさに「成長の一瞬」を、そこに、見た。
 
当時、彼がしゃべれた言葉は、「ママ」「パパ」「ブーブ」くらいのものだったと思う。
おそらく、その言葉の概念はまだハッキリとはしておらず
「ママ」といえば、ママが笑って応えてくれる、
ママが絵本を指して「ブーブ」というから、ボクも「ブーブ」といってみる、というくらいの段階。
 
それが、ある日、お散歩にいってたくさんの「ブーブ」を見て、
ママがそれを見ながら、幾度も「ブーブだね」といっており
家に帰ってきて、絵本の中にも「ブーブ」を見つけたとき。
 
彼の頭の中のシナプスが、すごい勢いでつながった!!!!
 
「・・・・・・・・・・・ブーブ!!!!!!!!!」
 
外を走っている「くるま」と、
絵本の中に描かれている「くるま」と、
自分の手に握りしめられているトミカの「マーチ」が、
すべて「ブーブ」という名で結びつく、ひとつのものであることが
 
「わかった!!!!!!!!」  という瞬間なのだった。
 
そのときのタイシは、狂ったように(!?)よろこび、
3日間くらい、次々、通りをゆく車を、一台一台、指さしては
「(あれも)ブーブ!」
「(これも)ブーブ!」
「(こっちも、そっちも)ブーブ!」と、
叫び続けたのだった。
うれしさがはちきれんばかりの勢いで。
 
そのあとの言葉の習得はめざましかった。
ものすごい勢いで、ものの名前を覚え、堰を切ったように、しゃべりだした。
 
体の成長は見えやすいけど、脳の発達は、外からは見えにくい。
 
その一瞬が見えた。
そして、誰よりも何よりも、タイシ自身が、
「物には名前があり、自分はそのことがわかるんだ」ということを喜び、うれしがっていた。
 
それを見た私。腰が抜けるくらいおどろき、感動した、成長の一コマだったのでした。
 
 
・・・ああヘレンケラー、あなたと一杯、飲み交わしたいくらいの夜だったよ。
 
 

2006年09月22日

ハイハイ進化論

ここまで大きくなってしまうと、ハイハイの時期が、とってもなつかしい。
 
うちのタイ坊は、体が大きくて、性格も赤ちゃんのときから、ゆったり&おっとり型だったから
ハイハイをはじめたのも、とてものんびりで、10ヶ月か11ヶ月の頃だったと思う。
 
家の中でも、児童館でも、しきりにハイハイして探索活動を続ける彼をみて、
「うーん、着々と進化してる!!」と思った私は、直感的に、
いろんなハイハイをさせてやりたいと思った。
 
きれいで安全なところでしか、赤ちゃんを下に置かない人もいるけど、私は全然、気にしない。
男の子だし、たくましく育ってほしい。
 
公園のお砂場で。 遊びにいった幼稚園の園庭で。
家の前の道路で。 なだらかな石の階段で。
 
ハイハイ、ハイハイ、ハイハイ、、、 
 
   とまって、考えて、何かをみつけて、、、、
 
       また、ハイハイ、ハイハイ、ハイハイ、、、  
 
 
ざらざらとした砂の感触。 ひんやりとした、土の感触。
凹凸のある道路をハイハイするおもしろさ。  階段を自分で勝手にのぼったり、降りたりしてもいい楽しさ。
ありんこ達と、目があったかもしれない。
 
よつんばいで歩くことができるのなんて、人生のうち、たったの数ヶ月。
今しかみれない目線で、いましか味わえない、手のひらの感触を、たくさん味わってほしい。
 
そんな、楽しいハイハイ期でした。
 
今でもしてますけどね。 赤ちゃんぶりたいときに ^^;
 
 
 
 
 
 
 
 
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